【会計士関連】なぜ会計士は使えないのか シリーズ② そもそも会計士を目指す人って…
久々の会計士関連エントリー。前回は、公認会計士が所属する監査法人内の育ち方、つまり外部環境にフォーカスしたエントリだった。
今回は、内部環境、つまり公認会計士を目指す人がそもそも事業会社、もっと言えばカチッした組織の中で生きることに向いていない人が多いし、監査法人を経由するとそういった組織の中での能力を得ないまま過ごしてしまうということを書いていきたいと思う。
【目次】
- 公認会計士を目指す人の性質(そもそも論)
これは元も子もない話なのだけれど、そもそも公認会計士を目指す人とはどういう人だろうか?私も元会計士なので卑下するわけではないのだけれど、いわゆる三大資格である医者、弁護士に比べると割と消極的な理由が多いのではないだろうか?
医者、弁護士と比べると割と幅広に色んなことをやっている人が多い一方で、「何をやっているのか、いまいち分からない」というのが、一般的な意見ではないだろうか。
どちらかと言えば、大学生活を体育会やらで汗を流し切磋琢磨するわけでもなく、留学して知見を広めるわけでもなく、ゼミで猛烈に勉学に励むわけでもなく、漠然と苛烈な就職活動はやりたくないし、将来の保証が先細るサラリーマンにもなりたくないし…というそこそこのレベルの大学生が目指すというのが、マジョリティではないだろうか。
はたまた私みたいに最初は事業会社に勤めながらも、やはり何となく文系の専門性の無さとその将来性を不安に思い、大企業で働くのも面白くないなあと思い辞めてしまい、一念発起して会計士になるパターン。
(余談だが、慶應の内部生とかに多いパターンだと思うのだけれど、大企業のサラリーマンや医者、弁護士というコンサバティブな職業の選択肢の一つとして割と早い段階で公認会計士という職業を選択するパターンもあるのだけれど、少数ではあり本論とあまり関係ないので割愛。)
いずれにせよ、何となく「組織内で生きるのが駄目っぽい」と悟っているという気質を持っている人が多いのではないかと思う。
そう、端から向いてないのだ。 - 監査法人内での”放牧”(監査法人、管理されない問題)
ただ、多少の組織内で生きる能力や気質の欠如というのは、他の学生も似たようなものなので、一般的な会社であればそれをキッチリと矯正する仕組みみたいのがある。
社内研修やら、メンターやら、怖い先輩・古参の社員の存在…組織で生きるとはどういったことなのかをちゃんと分からせる仕組みがある。
が、監査法人の場合、いい意味でも悪い意味でも、組織でキッチリと管理し育てるという仕組みが弱い気がするのだ。もちろん、あまりにも出来が悪い(お頭の良し悪しではなく、一般的なコミュニケーション能力、言葉遣い、生活態度など)人に対しては仕事を与えず干してしまうのだけれど、多少出来が悪くても、監査法人の多くの人達は基本的に穏やかであり、プロフェッションとして仕事を任せるという立場の人が多く、ぼっこぼこに矯正してギッチギチに管理するということはあまりない。
なので、一般の事業会社と比較し、前述したもともとの会計士の気質も相まって、かなり好き勝手やってしまう人達がのびのびと育ってしまう(これは私もそうです。基本のびのびやりました。のびのび超長時間残業だったりしたこともありますが…)。
ただ、監査法人は自由な雰囲気で風通しもよく、辞めた今でも過ごしやすい会社だったと思いますよ。一方的に悪いというわけではないです。 - ある程度自由にやらせるというスタンス(監査法人、管理しない問題)
そして、ここから徐々に罪深くなる。管理されてこなかった人たちが徐々に年齢を経るにつれて職務が上がってくるのだけれど、そんな人たちは管理職になってどうなるか?
やはり、きっちり管理されてこなかったから、管理するのが苦手な人が多い気がするのである(プロフェッションが管理されるのは単純にストレスが溜まるだけだけど、プロフェッションを管理するのは膨大なエネルギーを必要とするから、気持ち分からなくはないのだけれど)。自由放任、任せる文化と言えば聞こえはいいのだけれど、酷くなると単なる放置、単なる無関心に過ぎない。
チームに誰がアサインされているのか知らない・興味がない、メンバーの業務内容を把握していない、残業時間知らない(そのエンゲージメントやプロジェクトにちゃんと利益が残ればOK!)、チーム間の日程調整ほったらかし、部下の評価・昇進・育成に興味なし…等々、マネジメントの業務から逃げてしまう人が一定数いるのである。それでも、何となく時が過ぎていき、特段短期的な評価にはあまり響かないのが恐ろしいところである。まあ、その上のパートナーの人たちも管理するのが苦手だったり、面倒くさかったりしたので、何となく気持ちがわかるんでしょうかね。 - 転職市場に放たれる”大きな子供”
しかし、当然好き勝手にやってパートナーに昇格できるほど今の監査法人は甘くないわけで、行き詰ってしまう人たちが一定数出てくる。
そんな人たちは肩書が「マネージャー」やら「シニア・マネージャー」といった肩書で法人から去り、上手いこと事業会社に転職したりするのだけれど、雇い入れた事業会社サイドでは、その肩書を真に受けて期待して管理職に据えたりすると痛い目を見るわけだ。
なんでって、管理しないんだもん。というか、管理してきてないし。もっと言えば、興味もないし。
そうやってリーダーシップも最低限のマネジメント能力もないまま、プロフェッショナル面して事業会社に来ると、当たり前ですが部下からは総すかんを食らい、さっぱり人望が得られず、チームとして機能しなくなる。で、事業会社のお偉方は「会計士使えねー」という評価が出来上がる。
とかなり辛辣な書きぶりになってしまったが、会計士が組織の中で生きるということに向いていない人が割と多く、向いていなくてもOKというおおらかな文化で育っているというのは理解しておいて良いかと思う。
逆に会計士の人は、事業会社に入るということは、今まであった監査法人の大らかで自由な文化は基本的にないということを肝に銘じて転職するなりして欲しい。特に伝統的な大企業であれば。
【映画評】『ブレードランナー 2049』/独身男性の琴線に響く、女性不在の壮大なSF
80年代のリドリー・スコット監督の伝説的な映画『ブレードランナー』の続編です。結論から言えば、今年、いやここ2、3年で最もよい映画でした。1枚の絵画のような息をのむ美しい荒廃した近未来の映像を、低音が唸るような不穏な電子音とともに物語を紡いでいき、1秒たりとも飽きさせることはないです。
これはまさに映画館で見るべき映画なので、上映中に大きな映画館でぜひ見てください!
物語は、前作『ブレードランナー』よりさらに未来の話。荒廃しつくした近未来では、レプリカントと呼ばれる人間の労働力の代替として存在する人造人間が人間と共に暮らしている。前時代の遺物である旧型のレプリカントを駆逐するために存在する捜査官、通称”ブレードランナー”であるKは、旧型レプリカントのサッパーを農場で発見し、処分する。その家の近くにあった枯れ果てた木の根元に、昔のレプリカントの骨を発見する。しかし、その骨をよく調べると、妊娠した形跡があること発見。生殖機能を持たないはずのレプリカントが妊娠した可能性に恐怖を抱いたLAPDはその子供を探し出し、無かったものとして探して処分しようと試みる。
一方、レプリカントを製造している巨大企業の社長であるウォレスはその子供を探し出し、レプリカントが生殖能力を持つ可能性に、更なる拡大生産を目論む。
しかし、Kはさまざまな手掛かりを見て一つの疑問、仮説を持ち始める。自分がそのレプリカントの子供ではないかと…
前述したとおり、薄暗いスモッグや灰のような雪の中に、メガロマニアックな高層ビル群が浮き彫りになってくる様は必見。初代『ブレードランナー』を見た観客の衝撃を知ることはできないのだが、それに近いものは体感できるのではないか?そう思わせるぐらいに圧倒的な映像です。
また音楽も負けず劣らず迫力があり、地鳴りのような重低音が響き渡り、映像とともに観客を圧倒する素晴らしい出来映え。
そして、ストーリーはとても物悲しい。その物悲しさが、独身男性の寂しい心に響くようなものなのです(笑)
例えば主人公であるKが自宅に帰り、食事を摂るシーン。何かパックされた冷麺のようなものを温めて、一皿の簡単な料理を作り、3Dの女の子と喋りながら食べる…日本の現代の独身男性を模したかのような映像であり、何か変な親近感を覚えます(私は2次元の女性とコンビニ弁当食べることはしませんが…)。
家族もいなく、近所づきあいもなく、職場の上司とは仕事以外の関係はなく、自分と同じレプリカントを処分するという矛盾を抱えたまま、黙々と暮らす日々。そんな中に一筋の希望を見つける。「自分はもしかしたら特別な存在かもしれない」という希望。
そして、特別でも何でもないという絶望。
しかし、それでも前に進むという姿勢。
友達がいなくても、彼女もいなくても、結婚できなくても、最後に信じた道を進む一人のレプリカントに、冴えない独身男性たちは涙するのではないでしょうか?(まあ、ライアン・ゴズリングだから様になっているだけで、冴えないやつは何やっても冴えないかも知れませんが…私含めて…)
が、一方で気になることがもう一つ。
それは、『独身男性に響く』ということの裏返しでもあるのですが、もしかしたら『女性にはさっぱり分からない』ということ。
というのも、この映画、”女性”がほとんど出てきません。
美しくも最高におっかなかったラブはレプリカントであり、任務を遂行する際の彼女は機械や悪魔といった類。次に、同じくおっかないロビン・ライト演じるマダムは男性的な女性であり、3Dのホログラムであるジョイは男性が身勝手に夢想する女性。唯一はマリエットなのだけれど、彼女は娼婦であり、男性の性の対象でしかない。
なので、(男性の私から観ても)あくまでも男性の視点でしか女性を描けていないという気がし、あまり女性が見て共感や感動を覚える造りになっていないのではないかという気がしています。
ただ、繰り返しになりますが、映像は近年稀に見るような美しさであり、テカテカしたCG映像とは一線を画す仕上がりであり、全くもって見て損はない映画です。
圧倒的におススメ。
【書評】『勝ちすぎた監督』中村計
★★★★★☆☆☆☆☆
個人的に、野球についてはあまり興味がない。プロ野球も夜中のダイジェスト放送で何となく流し見し、地元の球団が負けこんでもそんなに嘆いたりしない。
こんな感じなので、本書のテーマである甲子園も正直、大して興味がない。シーズンが過ぎてはじめて優勝チームを把握する。その程度だ。が、そんな私でも2006年の早稲田実業と駒大苫小牧の決勝戦は覚えている。それぐらい、この時の戦いは異質だったし、異常な盛り上がりだった。
本書では、その時の敗者である駒大苫小牧の監督、香田誉士史氏のノンフィクションである。香田氏は大学卒業後間もなく、母校・駒澤大学の付属高校である駒大苫小牧に野球部顧問として赴任。90年代半ば、その厳しい気候や北国特有の気質等も影響し、北海道はいまだ甲子園での優勝経験はなく、強豪校との差は大きかった。そんな中で香田監督は異常ともいえる厳しさで高校球児を鍛え上げる。また、彼の野球人としての優れた感性、斬新な練習方法の導入などもあり、徐々に駒大苫小牧は北海道の強豪校として進化していく。そして、2004年、甲子園の頂点に昇りつめ、2005年に連覇、2006年には準優勝と近年稀に見る成績を収め、一時代を築き上げていった。
しかし、優勝する一方で部長の日常的な暴力行為、選手の飲酒・喫煙、それに伴う選抜大会の辞退など、負の側面も明るみに出てしまう。
本書は、長い甲子園の歴史の中で揺ぎ無い歴史を築き上げ墜ちていく過程を、香田監督を中心として、丹念に描いている。
特筆すべきは香田監督の異常なまでの厳しさ。北海道の厳しい気候の中での練習。容赦ない罵声。そして暴力。本書では自信も手を上げていたことを告白している。一方で、繊細であり、優れた野球の感性を持ち合わせる。天才の一種なんだろうと思う。
そんな香田監督でも10年をかけ、ようやく甲子園で優勝できるチームを作り上げることが出来た。チームビルディングの難しさを感じる。
ただ、個人として、ビジネスマンとして、あまり参考にはならないかなと思う。
また、本書の弱い点としてかなり野球のテクニカルタームが多く、冗長に感じる。野球に詳しい人が読めば、面白く感じるかもしれないけど。
【会計士関連】なぜ公認会計士は使えないのか?シリーズ① 視点の違い、目線の低さについて
公認会計士と聞くとどういった印象を受けるだろうか?会計に精通しているのは、もちろんのこと、経営戦略や管理業務にも詳しく、まさに将来のCFO候補達といった煌びやかなものだろうか?
はたまた、どーでもいい些細な論点を突っつきまわして、会社の事業や実務など碌に知らず、日々しょうもない仕事をしているくせに変に給料は高く、妙に上から目線の偉そうな会計オタク連中といった感じだろうか?
私は監査法人から事業会社に数か月経つのだけれど、何となくだが事業会社が公認会計士に求める能力、資質とそのギャップが見えてきた気がする。
メモ書きのようなものだけれど、公認会計士に何が足りないのか、ちょっとずつ書いていこうと思う。逆に、今監査法人にいる公認会計士の人たちはこの足りない部分を少し考えながら日々の業務に当たってほしいと思う(もしかしたら、転職活動もちょっとだけスムーズになるかもね)。
まずはかなり根本的なところから、「目線の低さ」と「視点の違い」という話から。
- 目線の低さ
事業会社は監査法人から四半期や期末の監査が終了すると、その期の検出事項をまとめた書類を貰う。事務所によっていろいろ異なるが、マネジメントレターとか言ったりする。文字通り、経営者に宛てた書類だ。最近だと、WordではなくPowerPointで作成されたビジュアル的にも美しいものも多くなってきている。マネジメントレターに書かれることは、会社が抱える会計上の論点や内部統制上の課題などが中心だ。会計上の論点だと、のれんや有形固定資産の減損損失や、繰延税金資産の回収可能性といった昨今話題になっている会計上の見積りのトピックが多く、内部統制上の課題だと会計システムのID管理の不備や、海外子会社の不正等が多いのではないだろうか?
ただこのマネジメントレター、事業会社側からすると部分的過ぎるのだ(一応、監査法人出身者として些細とは言いませんとも、ええ)。
例えば、内部統制上の論点だと、テストした結果、証票書類に一部不備があった(ハンコがないとか)、システムのIDの棚卸が出来ていなかった、一部処理に誤りがあり使っているスプレッドシートがイケてなかった…など。
確かにエラーはエラーであり、不備は不備であり、検出事項として伝えるのは大事なのだけれど、あれだけ膨大な時間を費やして、高い金払って(まあ、これは反論あるかと思うが…)結局出てきた成果物がこの調子だと、まあ事業会社側はシラケるわけです。お偉方は特に。
なぜ、こうなってしまうかというと、今の監査がこういうもんだから。
今の監査は昔と異なり、属人的な、感覚的なものから離れ、かなり標準化されシステム化されている。昔ながらの”大先生”による異常点監査ではなく、やるべきことが監査基準や各法人のマニュアルなどで明確化されており、割とどのチームでもやるべきことというのが似通ってきている。そして、実際に行った手続は電子調書として纏められ、漏れがないようにシステム化されている。
しかも、この標準化・システム化は大体グローバルに展開されるため、各法人間、そして各国家間においても少しずつ差がなくなってきている。これはこれでメリットがある。昔はチームごと、パートナーごとに監査で実施することが異なっており、ある会社はザルであり、ある会社は非常に細かく視られるといった差があった。で、ザルっぽいことをやっていた会社から粉飾決算が見つかったりする。標準化やシステム化を進めれば、少しずつだけれどもこういった人による、チームによる、法人による差というのはなくなり、一定の水準は確保できる。監査の品質管理というやつだ。
一方で、標準化・システム化の陰で失われたものもある。
昔は少し時間的に余裕がある一方で、会社とのコミュニケーションを密にとる時間があった。それは単純に作業が少なかったから、クライアントの人と飲みに行く時間がいっぱいあった、というだけではない。今と異なり、パートナーのローテーション制度(パートナーは5年だか7年だかで別のパートナーに交代する必要があるのだ)もなく、一つのクライアントに長い期間コミットできた。
ぺーぺーのアソシエイトやスタッフが最初はおっかない経理課長に怒られながら少しずつ会社の理解を深め、数年経ちシニアになって、ややこしい会計処理や新しい基準が出れば会社から頼られるようになり、時には自ら決算作業を手伝って、また何年かしてマネージャーになれば、取締役や部長クラスと全社的な観点から会計上の論点や内部統制なんかを議論しつつ、クライアントのビジネスとは何なのかという本質を知り、そしてパートナーなる。その頃になると、もうクライアントと付き合い始めてから10数年経ち、会社の経理担当者よりも詳しかったりする。厄介払いされるので、会社にはあまり行かなくなったけれども、大事なミーティングなどでは結構鋭いことを会社にも言ったりする。
事業会社ではそんな監査法人のパートナーをおっかないなあと思いながら、反面頼りにしていたりする。難しい論点があれば、答えを出してくれるし、たまのミーティングではなるほどと思うことを言う。
こうして、長い年月をかけて、公認会計士も会社の二人三脚で成長できていたのではないだろうか?会社は事業の知識を、会計士は会計の知識をそれぞれ持ち合い、お互いに補完しあい成長するという関係。しかし、いつしかそのサイクルが上手く回らなくなり、お互いがお互いを甘やかす結果となり、粉飾などの問題が発覚する。そして世間は両社の関係をこう批判する。
「馴れ合い」だと。
結局、お互い少し距離を取って「節度ある」お付き合いをすることが求められた。標準化とやらでやることが増えたし、つまらないエクスキューズのための書類も増えた。一方で、少しずつ会社のことが、ビジネスのことが分からなくなった。分からない人が増えた。経営者に”刺さる”ことなんて書けないし、そんなこと考えている時間もない。そもそも、経営者にも取締役にも大して話したことないし何考えてるのだか分からないし。下の連中に聞くと、何やら内部統制のテストで、ちょっとエビデンスがなかったらしい。じゃ、ここら辺の当たり障りのないことを適当にまとめて報告するか…となり、先の面白くとも何ともないマネジメントレターが出来上がる。
会社も会計士に頼らなくなった。会計士は転職市場に定期的に出回るから必要であれば雇えばいいし、検索エンジンなどの進化で、インターネットに聞くほうが早いこともある。というか、会計士が調べ物をするときにググってるし。
結局、会社との、経営との接点が少なくなり、パートナーやマネージャーというそこそこの立場の人間が、経営、事業、管理、海外といった視点で問題を語り、それを納得させる能力が失われて行ってしまったのだと思う。
なので、事業会社からすると、特に昔の怖い大先生を知っている人からすると、どうにも目線が低くて、期待外れに感じてしまうのだろう。 - 視点の違い
いや、そうではなく、そもそも監査がこういうもんだから、という理由もある。
前提中の前提の話だが、監査は、投資家保護がまず最初の目的であり、会計基準との準拠性や重大な虚偽がないかどうかが重要。
内部統制監査が始まって以来、一応財務諸表ができるプロセスを追っていったりするものの、実際に会計士自らが手を動かすことはなく(というか、できないのだが)、その実効性や効率性なんかは肌身で感じることはない。飽くまでも出来上がったものにケチをつけるというスタンス。
なので、経営や事業の課題はそれは経営者や事業会社の人間が考えることであって、会計士の仕事じゃない。それを期待するのなら、コンサルティング会社かアドバイザリーファームにでも言ってよ。なんならグループのコンサル会社を紹介しましょうか?…と考え始めれば、今っぽい監査法人の会計士の出来上がりと。
これはこれで一理ある。監査は別に経営コンサルティングでも何でもない。はなから、目的が全く違うのだから、それを求められても困るのである。
結果、こういうマインドの人からは残念ながら事業会社が求めるようなものは何も出てこない。当たり前だ、考える必要性を感じていないのだから。
加えていうならば、こういう会計士は就職活動すると大体面接で撥ねられる。手転職理由として「経営に貢献できることがしたいです」というのだけれど、具体的なことを聞くと、全く考えていないか、的外れなことが大半だから。
結局、事業を知ること、事業と会計を結び付けること、会計から事業に貢献できることを考え、そして出来る範囲で実践することが重要なのだけれど、今は監査法人でその機会が十分に与えられていない。偉い人や昔の人の一部はそれに気が付いていて、何とかしたいと思っているけれども、そもそも監査そのものの業務のボリュームが大きくなってきているため、この流れを変えるのはなかなか難しそうだと思っている。
【書評】『外資系コンサルのスライド作成術―図解表現23のテクニック』山口周
★★★★★★★☆☆☆
今勤務している会社は、Wordをほとんど使わない。中途入社社員にマッキンゼーやらBボストンコンサルティンググループ(以下、BCG)やらコンサルティングファーム上がりの人が一定数いるからか、報告資料や補助的なハンドアウト等、大よそ全てPowerPointで作成する。
そこで様々な人が作成したスライドを目にするのだが、まー、千差万別である。グラフやチャートの作り方、メッセージを置く場所、配色、シェイドの使い方…割と「最低限こういう風にしなさい!」というお作法が決まっていて、スライドについては細かい指摘が入る会社だとは思うのだけれど、それでもレベル感はいまいちだ(私もそんなに自信があるほうではないです…)。
例えば、職場だとしばしば、上司が作った資料について部下の私が”忌憚無き”アドバイスを求められる。目の前には、レゲエのアルバムのジャケットかのごとくラスタカラーの良く分からないチャート…上司は割と達成感ある顔で「どうかな?なかなか分かりやすいと思うのだけれど…」と言われる。さすがに私も「何がやりたいのかサッパリわかりません」と忌憚なく言うと今後の仕事に支障が出るのは承知しているので、やんわりと「このボックスは削ってもよいのでは…」「色はもうすこし淡いほうが…」「矢印とかを使っては…」と誘導していく。しかし、なかなか改善せず似たような要領を得ないスライドが各所で量産される。
ここで、スライド作成が厄介なのは(エクセルもそうだと思うが)、「自分で作っている間に自分の頭が整理されてしまう」ことだ。このため、作った本人は最高にわかりやすい資料を作ったと思い込み、何故他人からみて理解しにくいかが分からない。
これを解決する一つの手段が、「型にはめる」という方法だ。その、「型」を完結に教えてくれるのが、本書だ。
この手のスライド作成術というのは、一時期雨後の竹の子のように出てきてもはや差別化が難しいと思っていたが、どうしてどうして、簡潔に纏まっていてとても良かった。
テクニックというサブタイトルからどうしてもPowerPointの操作やグラフの細かな描き方が主な内容化と思ってしまうが、内容はテクニックというよりは原理原則、プリンシプルが記載されている。スライドを作成する順番、数値の種類とそれに適したグラフ、メッセージとチャートの軸を整合させる…など、スライド作成の基本が内容だ。
本書のまず良い点は、非常に簡素に書かれているという点。ページ数も160ページ程度しかないため、サクサク読める。おそらく多くの人は半日から1日程度で読めると思う。
二つ目は、簡素である一方で情報理論などに基づいたアカデミックな知識を少しずつ盛り込んでいる点だ。
例えば、人間の知覚上、「長さ」と「面積」では、「面積」は差異を知覚する上で劣っている。このため、円グラフはあまり使用するのは限られるべきであるといったアドバイス(BCGでは円グラフ使用禁止らしい、へー)。
はたまた、スライドは左上から右下に進んで視線が移動するため、右上の「強い休閑領域」に重要なメッセージをおかないというグーテンベルグ・ダイアグラムなど、なかなか面白い挿話があり、簡素な割に勉強になるのも本書の特徴だ。
スライド作成の書籍は類書は様々あるけれども、とりあえずこの1冊で「型」を学べばいいんじゃないかと思います!(逆にこの「型」を徹底するのが大変という…)
※本書には以下の姉妹版の「作例集」があり、より豊富な事例に触れることが出来る。上記の書籍だけだとイメージが湧きづらいという方はどうぞ。普通に見ていても面白いです。
【好きなもの】ThinkPad
自分はThinkPadが好きだ。というか、もはやこれしか使えないといって差し支えない。
※楠木教授もThinkPadの記事に出るぐらい好きなようだが、特に意識しているわけではないです…偶然です。
自らのThinkPad好きを話す前に、簡単に自分のPC遍歴を振り返ってみよう。
私が最初にPCを触ったのは高校生(中学生だったかも…)の頃ぐらいに親が買ってきたFM-Vだったと思う。その頃は、まだインターネットをやるにしてもダイヤルアップ回線でやっていて大したページは見られなかった。2ちゃんねるも根暗な人間の巣窟(すくつ)ぐらいにしか思われてなかったし、インターネットそのものがアンダーグラウンドな文化の一部でしかなかったと思う。
しばらくすると、FM-Vが古くなってきたので、安いソーテック(知らないと思いますが…)のPCへ買い替え。2,3年して、私が大学に入学した後、入学祝いに自分用のデスクトップとして、VAIOの紫色の洒落たやつを買った。大学4年間は何とかそのVAIOで乗り切り、社会人になったら東芝のダイナブックを買った。振り返ると割とミーハーな気がする。
その後、しばらくして転職して某監査法人に入所するのだが、そこで出会ったのがThinkPadだ。監査法人は基本的にクライアント先に往査して仕事をするのが通常なので、ラップトップは必須の仕事道具である。
初めて触ったThinkPadは確かX220という法人向けのシリーズの当時の最新機種だったと思う。最初の感想は、まー使いづらいという印象だった。使いづらさの原因は、なんと言ってもキーボード中央部にある乳首みたいなトラックポイント。このマウスとは全く異なった感触のトラックポイントの操作にかなりストレスを感じた。触ったことのある人なら分かると思うのだけれど、こう、マウスとは違う「ちから加減」が必要なんだよね。
が。
が、である。このトラックポイント、慣れると非常に使いやすい!
ポインタのスピードを上げてもマウスのように滑りすぎず、絶妙の位置にポインターを置くことができるし、キーボードの中心部に位置することから、キーボードを叩きながらも非常にスムーズにトラックポイントに移行することができる。マウスを持ち運ぶ必要もないし、そのスペースもいらない、効率的で使い勝手のいいデバイス。。。もはやマウスなんか使ってられません!(※まあ、他のファームも同様だと思いますが、そもそもマウスやらを使わずショートカットを駆使するのが、出来るスタッフの条件だったりするのだけれど…)
しかも、Xシリーズはキーボードも大き目で叩きやすく(今は割と小さくなったが…)、ボディは丈夫に作られており、HDも容量が大きく、仕事道具としての機能美を十二分に備えている。Apple製品のようなデザイン的な美しさには欠けるが、ブラックカラーでかつマットなボディは、職人的な仕事道具(スプレッドシートこねるのが大半ですが…)としての良い意味での武骨さを感じさせる仕上がり。
このブログも最新マシンであるX1 Carbonで書いているのだけれど、快調そのものであり、何時でも持っていたい相棒って感じのPCです!